続・結構知られていない日本と朝鮮の歴史(284)

秀吉と朝鮮半島4・肖像画とお坊さんの数奇な運命

1682年、今から334年前、宇和島藩(現在の愛媛県)に居た『譲天和尚:じょうてんおしょう』さんが、自分のお寺の倉庫を掃除し始めました。すると中から、ねっとりと張り付き、広げることも出来ない状態の巻物を発見します。

譲天和尚
譲天和尚:じょうてんおしょう

彼はこの巻物を外に出し、埃を掃い、なんとか強引に巻物を開くのでした。するとその巻物から縦1m40cm、横1mの絵、秀吉の肖像画が現れるのでした。現在、私達がよく目にする秀吉像は、実はこの絵から抜粋されるものなのです。

話を戻し、『譲天和尚:じょうてんおしょう』さんは腰が抜けるほどビックリします。なぜこの田舎の宇和島藩にこのような絵があるのだろう?しかもこのお寺に??

譲天和尚さんはこの巻物の裏に書いてある文字を読むのでした。するとそこには『(漢文を翻訳)この絵は元藩主・富田信高が秀吉を想い書かせたもので、その後お寺に管理させていた。しかしその後、藩主が変わり伊達家(分家)となった。この絵は伊達家の家宝としてこの寺で継続し管理された。』と書かれていたのです。

そしてその続きとして『この絵は住職・道専(どうせん)によって管理された。道専は朝鮮国王の裔(親族)である。』と書かれていたのです。道専とは譲天和尚さんの父の事でした。つまり発見した譲天和尚は、秀吉の朝鮮出兵の際に日本へと連れられた被虜人の二世であり、朝鮮王族の1人であったのです。そして彼は巻物をつうじ、秀吉によって日本へと来た父の運命と、秀吉の肖像画を管理した自分たち親子の運命に、複雑な思いをはせるのでした。

そしてこの時の気持ちを一言だけ「実に不思議な因縁である」と残したそうです。

さて、譲天和尚さんはその後、この寺の住職をまっとうし引退、身軽になったことをキッカケにこの絵を抱えて上洛します。そしてこの絵を綺麗に修復し、持ち帰りました。私達が今も秀吉の肖像を見れるのは彼のお陰でもあるのです。彼は後に、1707年京都の大本山『妙心寺』の第324代目住職にまで登りつめその4年後に穏やかに亡くなりました。

譲天和尚さんが管理し、修復した秀吉の肖像画は、日本に5,6枚ある絵の中でもっとも大きく、優れた絵だと評価されていています。そして今も愛媛県にある『宇和島市立伊達博物館』で見ることが出来ます。また譲天和尚さんのお墓は藩主伊達家の墓と同じ『金剛山・大隆寺:だいりゅうじ』にあります。愛媛県宇和島市宇和津町1丁目。

秀吉肖像画とお坊さんの数奇な運命
秀吉肖像画とお坊さんの数奇な運命

出展:蒼天求白雲

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